No One Like You


そもそも最初はターゲットからして、違っていたのだ。

入社8年目、大手玩具メーカーのゲームプログラマーとなったオレがその時夢中だったのは、彼ではなく彼女で。
彼女。――そう、本社ビル一階、メインエントランスの正面カウンターに座っている彼女。
色白華奢なスタイルに甘めの栗色セミロング、右側だけ出るエクボがカワイイと評判の彼女は、ふた月前配属されたばかりの新入社員だった。そんな彼女にいきなり一目惚れをしたオレだったけれども、どんなに可愛くても受付カウンターの女の子には手を出さないというのが、本社ビル内でひしめく男達の間では絶対に破ってはならない鉄の掟で。ただしこちらから手を出すのは厳禁だけれども、彼女の方からの告白があれば謹んでそれを受けてもいいというのも暗黙のルールだったから、同じような魂胆のライバル達の中、健気なオレはどうにか彼女に顔と名前を覚えてもらうべく、毎朝せっせと挨拶を繰り返していたのだった。しかしそこまでは何とかいけても、実際のところはやはり彼女にとってもオレは「その他大勢」の中のひとりでしかなくて。実他のライバル達と比べても、もう一つ飛び抜けたところがないというのが正直なところだった。
だからこそガツンとひとつ、先をいく奴らの前に出られるような事が欲しかったのだ。
困っている彼女がほっとけなかったからとか正義感に駆られてとか、内心では散々キレイな言い訳を並べてはみたものの、素直に白状すればあの時のオレの行動に理由を付けるとしたら、そんな下心からでしたとしか言い様がない。

「はい、株式会社コノハ堂で…――え?」

その日。
遅めの昼食から戻ってきたオレがそれに出くわしたのは、本当に偶然の事だった。
定位置である受付カウンターに掛かってきた、一本の電話。やわらかな仕草で受話器を取ったその直後から、いつも華やいだほほえみをのせている彼女の顔にさっと影が差す。

「いえ、…はあ……ええ?あぁ、その…そうですか、それはあの…申し訳ございません」

その電話はどうも、最初から様子が違っていたようだった。
萎縮したように答える彼女のソプラノ。語尾も僅かに震えていて、柔らかそうな髪が揺れ、しんなりと頭をうつむかせている。
通りがかりを装いながらも思わず足早に近寄りながら、(どうした?)と声に出さず目で問いかけると、大きな瞳が俄かに濡れて、長い睫毛が数回、扇ぐようにまたたいた。ふんわりと整えられた眉がきゅっと寄せられ、卵型の小さな顔がそっとオレの方を見る。
(なに?お客さん?)
(ん、)
(…クレーム?)
(……ん)
時々、あるの、ここ。大代表だから。そんな風に声に出さず伝えてくる彼女だったけれど、持っている受話器からは厳しそうな女性の声が、『…ちょっと、真面目に聞いてるの!?』『説明書に書いてあるったってね、その説明がわかりにくかったって言ってるの!それでもアナタ、こちらの責任だって言うわけ!?』と矢継ぎ早にまくし立てているのが聴こえてきた。…これは、確かに…ちょっと、難しそうなお客さんだ。なんとか取りなそうとする彼女が口を開こうとしても、それを封じるかのようにヒステリックな声が被さってくる。
どうやら横でガンガン漏れて聴こえる話から推察するに、その電話はうちで出している携帯型ゲーム機の、不具合についての苦情らしかった。家庭用レジャー機器(まあ有り体にいってしまえばオモチャの類の事だ)の開発・製造から販売まで一貫して行っている我社の、一番の主力商品。アフターサービス専門のダイヤルもちゃんと準備されているし取り扱い説明書にもでかでかと記載されている筈だけれど、どうやらこの女性はいきなり全部をすっ飛ばして本社の代表番号に直接物申しにきたらしい。しかしさっきから感情的に声をぶつけてくるばかりで、結局のところ何をどうして欲しいのかが今ひとつ伝わってこない。怒り心頭なあまり、勢いで掛けてきているのだろうか。
そんな事を考えつつも、憧れの彼女との口パクだけでする会話が妙に嬉しくて、オレは俄かに体が熱に浮かされるのを感じた。頼るように見上げてくる、彼女からの視線。潤んだそれは堪らなくいたいけで愛らしく、オトコとしての本能をきゅんきゅん疼かせるもので。
だからつい、思ってしまったのだ。
よっしゃじゃあこのうずまきナルト様が、いっちょココでいいとこ見せたる!…なんて。

「あっ…じゃあさ、オレが代わるってば!」

意気揚々と宣言すると、電話の向こうから連射されてくるマシンガンのような語り口にたじろいでいた彼女は、ギョッとしたようにオレを見た。
えっ…いいです、大丈夫ですから!と訴えてくる瞳にニッコリと笑いかけ、持たれた受話器に手を伸ばす。
(遠慮しなくてもいいってば)
(遠慮とかじゃなくて…これは私の仕事ですから)
(でもそのオバチャンさっきから言ってることメチャクチャじゃん。取説読まずにいきなり適当に弄りまくって自分で壊したんだろ?)
(そうですけど、でも)
(いいからいいから、オレに任せとけって!ガツンと一発、こっちは悪くないっていってやるってば)
(だっ…ダメですよそんなの!)
最小限に抑えたボリュームで言ってみるも、通話口を軽く押さえたままの彼女はどうしてもそれをオレに譲ろうとはしなかった。結ばれたベビーピンクの唇に段々と躍起になりつつ、無音の攻防を続けている裏側では苛立った声が『ねえ、さっきから全然返事しなくなったけどどうなってるの?ちゃんと聞いてる!?』と受話器の向こうからがなりたててくる。
いよいよ怒りも最高潮な様子の相手に(ほらァ、いいからもうオレに代わっとけって!)と強引に彼女から受話器を取り上げようとしたオレだったが、しかしその一瞬前に、突然横から現れた長い指によって、それは呆気なく奪われた。
へ?と間抜けに開いた目に見えたのは、スラリと背の高いスーツの男。

「――大変失礼いたしました。代わりましてお話伺わせていただきます、うちはと申します」

薄い唇から出された声は男にしては艶のある低音で、ぽかんと立ち尽くすばかりのオレの耳にも、やけに心地よく響くものだった。
申し訳ございませんがアフターケアに関してましては、違う部署にて対応させていただいております。よろしければこのまますぐにそちらへお繋ぎいたしますので、どうかこのままお待ち頂いてもよろしいでしょうか?
流れるような丁寧なお願いに、受話器の向こうの女性が口を噤み、聞き入っているのを感じる。
『なによ、たらい回しってわけ?』
「いえ、決してそういう事では」
『この番号だって代表なんでしょ?自分とこの商品なんだから、誰が出たってわかるようにしておくべきなんじゃないの?』
「申し訳ございません。ですがより専門の知識がある者が伺った方が、お客様がお困りの点について迅速に解決できるかと」
一段下がった場所からだけれども毅然とした主張に、息巻いていた女性がとうとう、『…あっそう。じゃあ早くしてよ』と言うのが漏れ聞こえてきた。「承知いたしました、すぐに」と答えたそいつは事の成り行きを見守っている彼女に向かい、切れ長の瞳でちょっと目配せをする。その眼差しに、どこか夢見るような表情でぼおっとなっていた彼女はハッと気が付くと、差し出された受話器をどぎまぎとした様子で受け取った。急いで保留のボタンを押してからカウンター内にあるスイッチ盤に目を向け、目当てのものを見つけると、桜色した爪先でそれを押し応答した相手につい先程まで聞いていたその女性の言い分を手早く伝えだす。どうやら相手はさっきこの目の前にいる男が言っていた、お客様相談室にいる担当者らしい。二度手間にならないよう、先にトラブルの概要を伝えておこうとしているのだろう。
そうこうしているうちに、そのスーツの男は左手で持っていたブリーフケースを右手に持ち替えると、そのまま何も言わずにさっさと踵を返した。その様子に、話途中だった彼女が慌てて顔を上げ「あっ…ありがとうございました!」と小さく叫ぶ。…なんだろ…なんか、いつもより、声が上ずってるような。染められた頬と普段と比べ確実にワンオクターブは高くなっている声に、不満のような不服のような、兎に角屈辱じみたものがムラムラと湧き起こってくる。なんだあアイツ…いきなり現れて、なんかイイトコかっ攫っていきやがって。何も言わず一瞬で消えてしまうところも、妙にカッコよくて更に苛つく。
「あんな奴、うちにいたっけ」と不愉快に呟けば、電話を切った彼女はその細い首を傾げながら「さあ…私も初めてお見掛けしますね」と小さく言った。
「ああ、けど…」
「?…けど?」
言いかけた言葉にオレが顔を向けた途端、彼女はぱっとそのマシュマロのようなほっぺたを、薔薇色に染めあげた。
「あっ…いえ、なんでもないです」と恥ずかしげに竦めた肩が、なんともいじらしく目に映る。

(――くっそォなんだよなんだよ、これじゃまるでオレだけピエロじゃねえかよ)

面白くない気分満載でそこを離れ、そのまま閉まりかけのエレベーターに滑り込めば、中にいたのはまさに今し方オレの目の前で、彼女からの羨望のまなざしを堂々と奪っていったあの男だった。
こんな手強そうなヤツもライバルにいたのかよとムカムカ思いつつ、ずかずかとエレベーターの奥に立つそいつの横に並ぶ。中途半端な時間のせいか、乗っているのはオレとそいつだけだ。点灯しているランプを即座に確認。どうやらコイツもオレと同じ階に行くらしい。
やがて静かに扉が締まる。微かなモーター音と共に、エレベーターが上昇を始めた。
(うーん…やっぱこいつ、見たことねえなあ)
動けないのをいいことに、オレはチラチラとその男を横目で盗み見た。
細い顎、高い鼻。ほくろひとつ見当たらない肌は抜けるように白く、しゃんとした背中は歪んだところがない。少し長めの黒髪とフレームレスの眼鏡は、まるでビジネスマン向けの雑誌から抜け出してきたモデルのようだ。こんな絵に描いたようなイケメンが社内にいれば、流石に少しは話題になるだろう。けれどそんな噂は一度も聞いた事が無かったし、それにさっきコイツ自身が名乗っていた名前…『うちは』なんて、これまで全く耳にしたことのない苗字だ。
銀色のアルミ素材で出来たエレベーターの扉には、並んで立つオレとその男の姿が、ぼんやりとした輪郭で映っていた。技術職でラフな格好のまま出社しているオレ(ちなみに今日の服装は破れたジーンズにお気に入りのロゴ入りパーカーだ)と比べ、すんなりと伸びた細身の体にダークグレーのスーツをピシッと着こなしているそいつは、それだけで妙に格上に見える。くそう、なんだかこれってば出だしからオレの方がスゲー不利なんじゃねえの?オレだって普段着ないだけでスーツ位ちゃんと持ってんだかンな。着たら無茶苦茶イケてんだぞいつか見せちゃるから覚えとけ。

「えー…と、なんだ。うちは…サン?」

沈黙に浸るエレベーター内で、オレはおもむろに先程聞き齧った名前で、そいつに呼びかけてみた。が、整った横顔は前を向いたまま、返事ひとつ寄越さない。
「…?うちはサン、じゃなかった?」
「……」
「ワリ、オレ名前聞き違えたか?さっきはそう聞こえたんだけど」
「……何?」
つっけんどんに返された言葉は一瞬ワケがわからなかったけれど、どうやらそれは最初の呼び掛けに対する返事のようだった。
…なにこいつ。さっきまであんな丁寧な言葉で喋ってたくせに、これはまた随分な変わりようじゃねえの。つか名前あってんなら普通に返事しろっての。感じワリィな。
「いや、用っていうか…あんま、見かけない顔だからさ」
「……」
「あ、そういや今日ってば月始めか!じゃあもしかして異動で?前は支店にいたのかってば?」
「…まあな」
そっけなく言ったきり、それ以上は何も語る事なく、そいつはまた貝のようにぴったりと口を閉じた。
うわー…会話、続かねえ…!ついさっきまでスラスラ喋ってたあの丁寧な言葉使いはなんだったんだ。猫かぶりもいいとこじゃねえか。
そう思ったところで突如、オレはハッとひらめいた。
…もしかしてコイツ。
コイツもオレと同じように、あのカウンターの彼女にひと目惚れしたんじゃねえだろな。
突然現れたかと思ったら、いきなりあんなカッコつけたような事(この際自分がやろうとしていた事はキレイに棚に上げておこう)しやがって。そうやって彼女の気を引き、オレに見せつけようとしたんじゃないだろうか。だからオレがいるってのに、わざわざ何も言わず横から入ってきたんだ。クッソォなんだそれ、まんまピンチに駆けつける白馬の王子様じゃねえか。
一旦そう思ったら、なんだかどんどんそれが真実のような気がしてきた。だってコイツ、(非常に悔しいが)見れば見る程イケメンだし。(認めたくはないが)声もちょっといい声してるし、(すげえムカつくけど)スタイルもいいし、さっきのお客さんに対する喋り方とか聞いてると、女の子を口説いたりエスコートしたりすんのも、お手の物のような感じがした。…なのに彼女の目がない場所に来たら、途端にこの態度。男と女でこんなにも態度を変えるなんて、あんまりじゃないだろうか。
手のひらを返したかのように無愛想になるそいつに、言いようのない反感はどんどん膨れ上がってきた。なんなのコイツ、おキレイな顔した上、妙にデキル男然とした態度でスカシやがって。こんなヤツの毒牙に、あの可憐な彼女がかかるのを黙って見ているワケにはいくまい。ていうか大体が彼女はオレのだし…いやまだ予定の段階なんだけど…け、けど!ここでのルールを教えておくついでに、先に釘だけは刺しておくに越したことはないだろう。いきなり現れた新入りに、そうやすやすと彼女を持ってかれてたまるかっての。
あのさ、と前を向いたまま口火を切ったオレは、言いながら前に映る端正な顔に視線を合わせた。
僅かに顔を上げるそいつに向け、うっすらと見せつけるような笑いを浮かべる。

「あのさ、さっきの」
「…?」
「電話。悪かったな、手間かけちまって」

そう言うと、鈍い銀色の扉の中で無表情に立つそいつは、鼻に僅かなシワを寄せると面倒臭そうに「ハァ、」と適当な返事をした。そうしながらかけている眼鏡を直そうと腕を上げた瞬間、さっとよく見えるようになった胸の社員パスを確かめる。
『うちはサスケ』…やっぱ『うちは』で合ってんじゃねえか。
社のロゴと共に印字された苗字に、さっき一旦落ち着いた筈のムカムカが、再び思い出される。
「彼女さ、まだここ来て二ヶ月なんだ」
「……」
「だからまだ色々と不慣れでさ。オレからも礼を言うってば」
「礼ならさっきもう、本人から直接言われたが」
なんでお前がまた礼を言う必要があるんだ?と尋ねられ、オレは言葉に詰まった。
前を向いたままの、透明レンズの奥の切れ長の瞳が、ほんの少しだけ細くなる。
「な、なんでってそりゃ、その…か、彼女とはオレ、仲、いいからさ…!」
「…へえ」
「まっ…まァでも、お前が来なくても、あの場はあのままでもオレがうまくおさめてたけどな!そんでも一応礼をと…」
「あっそ」
熱弁するオレを小馬鹿にするかのようにそいつが相槌を打った瞬間、上昇をしていたエレベーターが、チャイムを鳴らし停止した。
銀色の扉が音もなく、両サイドへとスライドする。
そうしてからそのまま何も言わずさっさと出て行くそいつにポカンと先を越されたオレだったけれど、ハッと気を取り直すと、慌ててエレベーターをおりた。面白くない気分のまま、姿勢のいい後ろ姿を追いかける。どうやらこいつも目的地までは同じ進行方向らしい。グレーのタイルが敷き詰められた床を、わしわしと大股で進んでいく。
「ちょっ、待てよ!話はまだ終わってねえって」
そう言って先を行くスーツの腕を掴むと、整いすぎな程のイケメンがゆっくりと振り返った。
…まだ何か?とひそめた細い眉からは、心底うんざりしているのがありありと窺える。
「あのさ、さっきの…彼女の事なんだけど。受付の子には手ェ出さないってのがココのルールだから。絶対の決まりだから!」
「……」
「だからさ、お前も彼女のコト気に入ったのかもしんねーけど、でもだからってさっきみたいなのはルール違反で…」
「そんな事はどうだっていい。女になんて興味ねえし」
――それよりあんな目立つ場所で騒ぎなんて起こすんじゃねえよ。折角彼女が穏便に済まそうと相手が落ちつくまで我慢してたのに、わかってない外野がカッコつけて余計な口出しすんな。
無感動にザックリ言われた言葉に、図星を刺されたオレは不本意にもぐうっと一度唸らされた。
それはまあ…そうなんだけど。わかってるし、下心もあったのは認めざるを得ないんだけど!

「じゃっ…じゃあ自分はどうなんだよ、彼女から電話を取り上げたのは自分のくせに。それだって結局は厄介だからってアフターに丸投げしただけじゃねえか、それはいいのかよ!」

そう悔し紛れに言ってやれば、返ってきたのは眼鏡の奥からまっすぐに向けられた、鋭利な視線だけだった。
向けられた視線があまりにも冷静で、射すくめられたオレは思わずきゅっと肝を冷やす。

「いいんだよ」
「はあ?なんで…!?」
「遅かれ早かれ、最終的にはオレらの仕事になるんだから」

あァん?どういう意味だと呻りつつ首をひねると、そいつは無表情のまま軽く顎をしゃくり、そいつの目的地であるらしい数歩先にある扉を見るよう、オレに促してきた。
見上げた先に見える、プラスチック製のドアプレート。
『お客様相談室』――くすんだオフホワイトのそれに書かれたゴシック体の文字を、口を開けたままポカンと眺める。
……やがておもむろに掛けられた「おい、」という声にハッと視線を戻すと、髪一筋ほどの乱れもみせないポーカーフェイスが、冷めた眼差しをオレに向け呼びかけていた。「…へっ?」とつい変にひっくり返ってしまった声に、そいつは小さく鼻を鳴らす。

「腕」
「…はい?」
「放せ」

無造作に言い渡された命令だったが、オレは何故か逆らうことが出来なかった。
「はっ…ああ、その…ゴ、ゴメン…」ともごもご口の中で唱えつつ、掴んだまますっかり頭から消え去っていた手を放し、そろそろと脇へと下げる。
僅かにシワの寄ってしまったジャケットの袖を軽く払いつつ、そいつは言葉を失ってしまったオレを一瞥すると、何も言わないまま颯爽とドアの前まで歩みを進めた。先程オレが見上げたプレートを念押しするようにもう一度確かめて、細く長い指を曲げ、オフホワイトで揃えられた扉を、軽く数回ノックする。
はーい、どおぞー!という明るい声。
静かな所作で開けられた扉の向こうから、いくつもの電話の呼び出し音が混ざって聞こえてくる。

「本日付けでここの室長となりました、うちはです」

よろしく、と言いながら一歩前に出たそいつは中へと消える間際、 ほんの一瞬、黙ったままオレの方を向いた。
真っ直ぐな視線が、立ち尽くしたままのオレを射る。
凪いだ湖面のような瞳に、オレが映り込む――そんな些細な事を自覚した途端、頬にぱっと朱が散ったのが分かった。何故だか無性に恥ずかしいような、対抗したいような…兎に角じっとしていられないような、妙な熱に駆られだす。
……やがてそんなオレに興味を無くしたかのようにふいっと前を見ると、そいつは開けた扉から一歩中へと足を踏み入れた。
樹脂コーティングされた重たいオフホワイトの扉が、赤面するオレを見放すかのように、蝶番の音を軋ませながらゆっくりと閉じられた。




【end】
not end, to be…?(できたらいいな)