『誰か』の運転する車に乗っていく彼を見送るのは二回目で、ゆっくりと重なる記憶にオレは体が動かせなかった。
春先の淡い靄のかかる夕暮れの街、煙る排気、凍てついたまま興味を示してくれない黒い瞳。
……やわらかな熱を、甘い唇を、オレ達は確かに分かち合った筈なのに。離れていく後ろ姿に思い出されるのは、どういうわけかそんなかつての記憶ばかりだった。あの髪の長い男は確か以前アパートに、サスケを迎えに来ていた奴だ。以前サスケに訊いた時には、そんな特別に仲がいいという訳でも、サスケが彼を気に入っているという様子もなかったのに。でもここで会うということは、今ではかなり親しい仲になっているという事なのだろうか。サスケの中で、大きな存在になっているという事なのだろうか。
――どうしてこんなに、不安が消えないのだろう。
あの日遠ざかっていくセダンが吐き出す煙で咳き込んでいたオレと、今のオレ。今も昔も立ち尽くすばかりで何も出来ない自分に違いを見つける事ができなくて、オレは拳を握った。ひたひたと満ちていく不安ばかりが寄せてきて、動けないままの足元を波のように浚っていく。
開放されたままの玄関に気が付いたオレは、土間に降りようとちょっと身を屈めた。揃えて並べられた靴先に、足先を入れる。そこに後ろからゆったりとした声色で「ナルトくーん」と自分を呼ぶ声がした。はっとして振り返ると、廊下の奥からちょこんと顔を出したミコトさんが開けたままの玄関扉に気が付いて、「あらら、サスケったら玄関開けっ放しのまま行っちゃったのね」と言う。
「ごめんなさいね、もうそのままにしといていいから」
「あ…ハイ。いや、でも」
「いいのよ。今日はなんだか蒸してるし、そこが開いてると風の通りもいいから」
「…そうですか?」
あらいやだ、さっきまでは雲ひとつないお天気だったのに。奥の方から出てきたミコトさんは俺の横まで来て空を見上げると、ぽつりとそんな事を言った。言われた言葉に靴から足を抜いたオレも見上げると、開け放った扉からの青空の遠くに、夏雲みたいな積乱雲が少し固まって見える。南の方からは、少し湿った風も流れ込んできているようだ。
「……夕方までに、一度ざあっとくるかもしれないわね」
そう呟いたミコトさんはふと指先で頬を包み憂慮するような仕草を見せると、もう一度空を見上げた。言葉には出さないけれど、きっと傘を持たずに出て行った我が子の事を気に掛けているのだろう。
そのままふたりしてしばらく、同じ人の事を思って空を眺めた。
やがて気が済んだのか、小さな溜息と共に空の観察をやめたミコトさんは隣に立つオレの方にきゅっと顔を向けると、「…サクランボ、一緒に食べよっか?」とハの字にした眉毛でちょっと笑った。
* * *
部屋に戻ると、サクランボの大量消費にようやく飽きたのか、縁側に移動したオビトさんがオレの顔を見ると、「お、サスケ行った?」と尋ねてきた。腰を下ろしVの字に伸ばした脚と背中側についた腕が、そうしているととても形よく長いのに気がつく。やっぱりこの人、サスケと血繋がってるんだな。ふといつもジーンズに包まれている細く長い脚が頭を過ぎると、昔『いけ好かない管理人』を偵察しようとシカマルを誘った時の、玄関の大きなガラス扉を拭いていた彼が思い出された。長く伸ばした腕、高い所を拭くためにちょっと背伸びしたつま先。今はしっかりとした壮年の体型になっているフガクさんも、もしかしたら若い頃は、サスケのような線の細い青年だったのかもしれない。
「あれが前にお前が話してた、サスケのご学友?」
同じように広縁にあるリクライニングチェアに身を預けていたフガクさんに、オビトさんが訊いた。こちらもかなりの満腹なのだろう、お腹に手を載せていたフガクさんが「ああ」と答える。
「なに、どんな奴?」
「俺もじっくり話した事はないが、院内での評判は悪くないな。人あしらいが上手くて弁が立つ」
「ふーん、何科希望してんの?」
「外科とか言ってたか。メスの扱いは自分より巧いと、サスケは言ってたが」
へええ、サスケがそう言ったんだ?と僅かに驚くと、オビトさんは突っ張っていた腕を外しそのままゴロンと後ろに転がった。大の字になった体を伸ばしながら、「そーかあ、サスケがなァ」と納得したように言う。再び座った食卓には、ガラスの器にまだひと盛のサクランボが残っていた。冷蔵庫で直前までしっかり冷やされていたのだろう、薄紅色した表皮にはうっすらとした水滴の膜が浮かんでいる。
向かいに座ったミコトさんに勧められるがまま、ひとつ取って薄皮に歯を立てる。甘い。
「ナルト君は今、どんな所に住んでるの?確か監督さん達の所で暮らしてるのよね?」
話題を切り替えるかのようにそんな事を訊いてきたミコトさんにサクランボを口に入れたままこくんと頷くと、「どんな方々?」と黒々とした頭がゆったりと傾けられた。見られているのを少し恥ずかしく感じながら、そそくさと急いで種を出す。ちょっとお腹が落ち着いてきたのだろう、オビトさんとフガクさんは何やら「あっそうだ、なァこないだの決着つけようぜ」などと言いながら、広縁の端に寄せてあった台のようなものを引っ張り出してきている。――碁盤?だろうか。
「えーと……監督は、自来也っていうスゲー元気なじいちゃんで、あと長門さんていう監督の付き人みたいなのをずっとしてる人がいて、」
ここに来る前、北海道の住まいを出立するオレを見送ってくれた二人を思い出しながら、オレは口の中の果肉を飲み下した。玄関先で寝乱れた寝巻きのズボンを引き上げながらあくびをするホッケーの師匠と、その横で身支度を整え爽やかに笑う兄弟子の顔が浮かぶ。かつては牧場を経営していた家族が住んでいたのだというその住まいはとにかく敷地も屋敷も広大で、部屋数の多さからオレ以外にもチームのメンバーが時折、寮代わりのような感じで割と気軽に身を寄せていた。それでもやはり街から遠く車無しではどうしようもない立地にあるそこに居を構えるのは、若くエネルギーが有り余っている男達には少々退屈で不便が過ぎるらしい。何か理由があって住み込んできた奴らも、大概は数ヶ月、せいぜい一年もすれば、交通の便がよく活気のある街の方へと移っていくのが大体のパターンだった。入団からずっとここから動かなかったのは、オレだけだ。
「こんな朝早くから起こしおって、折角キレーなねーちゃんとこれからイチャパラな事しようかって夢みてたのに」と文句を言いつつも、ちゃんと起きて見送りをしてくれた師匠を思い出す。普段だったら休みの前夜は歓楽街で朝まで飲み倒し、起床は次の日の昼過ぎなのが常なのに、一昨日の晩はそれを控えていてくれていたのは、ちゃんと朝、オレの事を見送るためだったのだろう。
『―――ナルトがうちを出て行かないのは、もしかして前に言ってた好きな子の事があるから?』
北海道に移り住んでから半年も経った頃、やはり店で酔い潰れた師匠を迎えに行った帰り道に、長門さんにそんな風に訊かれた事がある。大柄な師匠は年寄りとは思えない程全身もきっちり鍛えられていて、それが酒に沈んだ時の重さときたら大人の男でも閉口せざるを得ないようなものだった。背は高いけれど痩身の長門さんには、そんな師匠を連れ帰るのが中々の苦行だったのだろう。オレが越してくるのを彼が熱烈に歓迎してくれていた裏には、どうやらオレがいずれ長門さんに代わって、その仕事を引き継いでくれるかもしれないという期待があったようだった。実際、最初はまだ道や街に不慣れだった頃はオレに付いて来てくれた長門さんだったけれども、そのうちにはオレひとりに任せることが多くなっていった。どうも彼はあの歓楽街の生温い空気とあちこちで聴こえる嬌声が苦手で、それがどうしても克服できないらしい。
なんでそう思うんですか?と聞き返すと、長門さんは笑いながら言った。
だって、ナルトは彼女が出来ても、全然うちから出ようとしないだろ?彼女出来ても週末に高校生みたいなデートするだけでいつも帰ってきちゃって。今までうちに来た奴らは皆、彼女出来たらもう即ここ出てっちゃったから。四六時中自由気ままに彼女連れ込めるようになりたいっていうその一念で、さっさと部屋見つけてね。
『それにね、ナルトは新しい彼女が出来ても全然浮かれた感じにならないんだよ。自分では気が付いてないかもしれないけどね』
忘れられないの?というか――忘れようとも、していないのかな?
ずしりと重い師匠の両脇を片方ずつ肩に背負いながら、苦笑した長門さんはそんな風に訊いてきた。どちらも的を得ているような気がして、当時のオレは確か口篭ったのだ。それでも『告白は?こっちに来る前してみた?』という後の問い掛けには、『うん。でも見事に砕けたってば』と答えると、そんなオレに気遣うように目尻を細めた長門さんは、ほんのりと笑んだ。
『そうか、でも当たってみただけでも君は俺より勇気があるよ』と言いながら前を見るその横顔が、なんだか妙に心に残っている。
「……ゴハンとかは?ナルト君が作ってたの?」
尋ねてくるミコトさんの声に、思考がまた戻った。目の前にいるミコトさんにちょっと笑い掛けて、「いや、当番制。監督もコミで」とオレは言う。「あ、でも掃除と洗濯はオレがやってるんだってば」と続けると、感心したようなミコトさんが、へええ、と小さく息を漏らした。指先で摘まれたサクランボが、少し上げられた肩にあわせそっと揺れる。
「家の中の全部?偉いわねぇ」
「いや、オレってばあそこにほとんどタダ同然で住まわせて貰ってるし。だから、せめて」
「男の人三人分のお洗濯かあ、結構量ありそうね」
「うーん、でも洗うの洗濯機だし。掃除も使ってない場所はほったらかしで、別に掃除しなくても誰も気にしないからいいよって最初に言われちゃったから、そんな大変でもないってば」
「他にはなにか担当してた事あるの?」と訊くミコトさんに「あとはそうだなー…監督を店まで迎えにいくのとか」と口を滑らすと、オレはすぐさま(しまった…!)と思った。危惧したとおり「店?」と小首を傾げるミコトさんに、エロ仙人が贔屓にしているネオンピンクの看板が思い浮かぶ。
「店って、ごはん屋さん?お酒が好きな方なのかしら?」と無邪気に首を傾げるその顔に、ちょっと目を泳がせながら「う、うん、い、飲食店、みたいな」と言葉を濁した。ゲームをしつつも片耳でこちらの会話を拾っているのだろう、広縁で碁盤を覗き込んでいる男性陣のちらりとこちらに投げかけられた視線には、(あー…飲食店、ね)という暗黙の了解が含まれている。
居間にある電話台の上で、置いてあった携帯が兆しもなく『ピリリリリ』と鳴りだした。その黒い携帯はフガクさんのものだったらしい。呼び出し音に気が付くと、対戦相手にも何も断ることなくフガクさんが立ち上がる。
電話は病院の方からだったらしく、ひと言ふた言の会話で通話を終えたフガクさんは「ちょっと行ってくる」とだけ妻に伝えると、携帯と車の鍵だけを持ってそのまま出て行ってしまった。そのキビキビとした身のこなしからは先程までの休日のお父さん然としたところが完全に払拭され、振り返ることなく出て行く後ろ姿には、確かな威厳と風格が漂っている。
そんなフガクさんに、「ごめんなさい、ナルト君はまだ食べててね」と言いながら素早く席を立って見送りに出て行ったミコトさんにちょっとポカンとしていると、広縁で碁盤を睨んでいたオビトさんが「あぁちくしょう、またフガクの勝ち越しかよ」とぼそっと呟いた。やっぱなかなか勝てねえなあ、などと言いながらまた後ろにゴロンと寝転がったオビトさんは、何を考えているのかぼんやりと木の節が浮く天井を眺めている。
「――なあナルト。お前さ、囲碁出来る?」
寝転がったまま口を開けていたオビトさんは、ぐりっと首を捻りオレの方を見ると唐突に訊いてきた。
サクランボを咥えたまま答えた声が、「ふぇ?」と変な風に出る。
「囲碁?」
「そう。やったことある?」
「一度もないッス」
一度も?ルールも知らねえ?と立て続けに尋ねられても、「スンマセン」と言うしかなかった。「えーと…チェス、なら」とおそるおそる昔手解きを受けた事のあるボードゲームを告げると、「チェスぅ?ばァか、そんなかっこつけたモンがこの家にあるわけねーだろ」と呆れられる。
「つーかお前、チェスなんて出来んのかよ。生意気だぞナルトのクセに」
「昔、父ちゃんに教えて貰ったってば」
「あー…お前んとこ、親父さんの方がハーフなんだっけな」
カカシ先生からでも聞いていたのだろうか、オビトさんはオレのルーツについても一応耳に入れてあるらしかった。半分はどこなんだっけ、グリーンランド?アイスランド?なんかとにかく、サンタのいる国だよな?という相変わらずのうろ覚えに、「アイスランド。……まあサンタはどっちかっていうとグリーンランドの方が有名だけど」と正解を教える。
「そーか、サンタはグリーンランドか」
「でも一応アイスランドにもサンタみたいなのはいるってばよ?」
「オレさぁ、サンタの事ずっと本気で信じてたんだあ。でも小学5年の時、カカシからあれは親だって聞かされて。道理で毎年ちゃんとリクエストしてんのに、朝靴下ん中見たら全然違うもの入ってた訳だよなって。あれにはスゲー納得した」
再び仰向けの大の字になったままぼやぼやとそんな事を言っているオビトさんに「何が入ってたんスか?」と尋ねると、ぼそっとひと言「ジャポニカ」という答えが返ってきた。「国語と算数、一冊ずつ」という補足説明が、思わず黙ってしまった空気にしみしみする。……なんだか悲しいクリスマスだ。しかしそれでもサンタのセレクトを信じようとしていた少年の健気さには、ちょっと胸を打たれるかもしれない。
出初めの果物はすっきりとした甘さで、どれだけ摘んでもその果肉に飽きることはなかった。昔話の傍らぼおっと上をみたまま再び放心の海を漂流しだした様子のオビトさんを横目に、先程の彼同様薄紅の山をせっせと切り崩していると、甥っ子と同じまっくろな瞳がぐりんとまたこちらを向いた。「あっ、じゃあさ、オセロは?そんならお前も出来んだろ?」と急に華やぐ声にちょっとドキッとさせられながらも一応頷くと、「よしよし、ちょっと待っとけよ」と言いつつ起き上がったオビトさんが、説明せずに何処かへ行く。
あったあった、これこれ!などと言いながらやがて戻ってきたオビトさんの手には、紙で出来た薄べったい箱が載っていた。だいぶ昔に買ったものなのだろうか、緑色したその表面は劣化が進み、ところどころ茶色い下地が覗いている。
「これやろ、オレと勝負!!」と笑顔で誘ってきたオビトさんに「えー?」とちょっと渋ると、つくづく惜しいハンサムが「なんだよ付き合い悪ィなー」と口を尖らした。それでもちょっと意地悪そうな目付きで「どうせ置いてきぼりくらって、する事ねえだろ?お前」とぐさりとやられると、返す言葉もないオレは黙るしかない。
ほらァ、指拭いて!皿片付けて!と急かされながら先程までフガクさんが座っていた板張りの広縁に移りあぐらをかくと、妙にウキウキとした様子でオビトさんがその薄い箱をそっと下に置いた。丁重な手つきでその脆くなりかけている紙の蓋を持ち上げると、外箱の色合いと同じ冴えたグリーンの方眼が現れる。
「うわ…オセロなんてホント随分やってないってば。どんだけ振りだろ」
「オレも。これ出すのも多分すっげえ久々だわ。押し入れの奥~の方に入ってたもん」
これな、サスケが確か幼稚園児位だったかな?まだフガクも院長なる前で、東京の方で住んでた頃買ったやつなんだ。そんな説明をするオビトさんは、毛羽立ったような角の部分をちょっと触りながら、懐かしそうに目尻を下げた。
「うちの奴らってさ、なんでかみんな囲碁教えられて育つんだけど、イタチがまたおっそろしく強くてな。それ見たサスケがオレもオレもってすげえやりたがったんだけど、やっぱ幼稚園児に囲碁は難し過ぎてさぁ。でもどおおしてもオレもやりたい!って泣くからさ、オレがコレ買ってやったんだよ、あっちに遊びに行った時に」
そんな昔語りをしつつ箱からオセロ盤を取り出したオビトさんは俺の前にそれを置くと、「よっし、じゃあなんも無いのもつまんねえし、なんか賭けるか!」などと言い出した。「えぇー・・賭けるって、お金?」と眉をひそめると(賭け事と酒と女には注意しろというのは、死んだ母ちゃんがいつも口を酸っぱくして言っていた教えである)、そんなオレにオビトさんは「いやいや今回はそんなものより、ずっと価値のあるものをご用意いたしやしょう」とニヤリとする。
「そうだな、オレが勝ったらお前、オレの質問する事になんでもすべて答えろ」
「ええっ、なんだってばソレ、そんな約束……!」
「そん代わりお前が勝ったら、サスケの卒業アルバムの在り処を教えてやる」
横暴極まりない約定に異議を申し立てようとしたオレは、提示された相手の品に浮きかけた尻をピタリと止めた。「…マジで?」とゴクリと唾液を飲むと、恋人の叔父はうむ、と深く頷く。にわかに弾み出す胸を抑え「そ、卒業アルバムって、それってば、いつ時代の?」と尋ねてみると、「小・中・高の3点セット」と威厳ある声が返ってきた。マジか……1点でもすごいのに、まさかキセキの3点セットとは!
「ちなみにな、サスケの中学は学ランだぞ」という低い呟きまで加えられれば、もうオレに迷うべき理由は無かった。「やるってば!」と一声叫ぶと、オビトさんはニタリと悪役じみた性の悪そうな笑いを浮かべる。
「よし、約束だぞ」と念を押す彼に、オレは力強く首を縦にした。賭けるっつっても、つまりは負けなきゃいいわけだし。オセロは久しぶりだけど、割とこういうボードゲームは苦手ではないのだ。
「先攻が黒で、後攻が白なんだよな、確か」と言うオビトさんはその白黒の石が入った色違いのケースを盤の上に置くと、「よっしゃ、じゃあジャンケンな!買ったほうが先攻後攻好きな方選ぶってことで!」と力強く宣言した。勝った方…勝った方か。オセロって確か先攻の方が勝ち易いんだよな。てことはここは是非とも勝って、先攻を手に入れたい。
「「ジャーンケーン……!!」」
揃えた声で音頭を取りながら、ポン!!で力強く「グー」を出すと、オビトさんも同じように勢いよく手を突き出した。出されたのは「パー」だ。白くて長い指がしっかりと開かれ、大きく主張している。
「やりィ、じゃあオレ先攻の黒な!」
弾む声でそう言うと、オビトさんはさっさと黒のケースを取ってぱちぱちと石を並べだした。くっそ、でもまだ負けたわけじゃねえし…!と奥歯を噛みつつ「グー」を見詰めると、気を取り直して白のケースを取る。
負けたわけじゃねえし、と負けん気を奮い立たせていたのも束の間の事で、ゲームを始めてみるとオビトさんは驚く程に強かった。「囲碁とオセロは、見た目似てても全然別物だからさあ」と言いつつ瞬く間にオレを負かしたオビトさんは、あまりのボロ負けっぷりに呆然とするオレにニタリと笑うと、「ほれほれ、賭けたもん出せ」と迫ってくる。
「うー……わかりましたってば、なんでもどうぞ」
くうっと悔しさを飲み込みながら渋々そう言うと、してやったりといった様子のオビトさんが「よおし」と言いながらひとつ咳払いした。どんな話だろ、サスケとの仲の事とかだったらどうやって答えようかとドキドキしながら待っていると、「お前さ。その『飲食店』とやらで、一体どんなサービス受けてきた?包み隠さずオレに教えろ」などという剥き出しの質問が、大真面目な顔したオビトさんからオレにぶつけられる。
全く想定していなかった質問に「は!?」と一瞬たじろぎながらも「……お店って言っても、ホントただのキャバクラだってば。喋って酒注いでくれる程度の健全な……」ともごもご言い訳するオレに、眇めた目付きのオビトさんは人差し指をすっと出すと、びしっとそれをオレに向けてきた。「お前。そこの店の子、そのままお持ち帰りした事あるだろ」という身も蓋もない推測に、図星のオレは(うっ)と口籠る。
「このやろう、やっぱあんのか!」
「――や!でもそれはサービスではないってばよ!?」
「うっせぇ知るかずりィんだよそんなでかいナリして金髪碧眼で!カカシから聞いたぞ、お前高校ン時無茶苦茶モテてたらしいじゃねえか!」
「えええ……そんな無茶苦茶なんて言う程じゃねえし、第一それ今関係ないじゃん……!」
「だいたいが男と女の出生比率は男の方が絶対余るようになってんだ!今日本にはその余剰分の男が山程いるんだぞ、それなのにひとりで数稼ぐんじゃねえよ!!」
一通り言うと気が済んだのか、ふうっと一度息を整えたオビトさんはおもむろに「よし、次いこう」とまた手を出した。ううっ…なんだろこれ、なんでオレこの人に責められなきゃならないんだろ。早くも割の合わない賭けだったのではないだろうかと後悔しつつ、それでももう負けたくないと拳を握る。再びジャーンケーン、と始まった掛け声、突き出す手――また、負ける。「オレまた黒ね~」と歌うように言いつつ、オビトさんが黒石を並べる。
「なーなーそういやさあ、お前らンとこのホッケーのチーム。なんかさ、すげえ仲良さそうだよな」
立て続けに二回負けて(ふたつめの質問は『お前初体験いつ?』だった。……じゅうろく、と小声で答えると、オビトさんは黙ってゆらりと立ち上がり、万力のようなヘッドロックでオレを締め上げた)、三度めのゲームが進んでいく最中、いっそう真剣さを増した目で盤の上の白黒を睨んでいるオレに、オビトさんは不意に、そんな事を言ってきた。多分オレの知る限りでは一度も観戦に来たことは無い筈なのに、何故かよく知っているような言い方に「…え?なんでそれ」と訝しむと、床に置いた盤に目を落としたままのオビトさんは、「チームサイトのスタッフブログで見た」と素っ気なく言った。黒の石と白の石は、今度はさっきよりも拮抗している。
「あれだろ、さっきお前が話してた長門サンってのがそのブログ書いてる人じゃねえの?」
「そうだけど――え?なんでそんなの見てんの?」
「なんだ、いけないのかよ。多忙極まるオレにだって、たまにはすっげー暇で暇でしょーがなくて、どーしようもなく時間が余っちまう時があるんだよ」
お前らさあ、なんかしょっちゅうバーベキューしてるよな。肉食い過ぎじゃね?
てらいもなくそんな事を言うオビトさんに驚きながらも、その言葉からは本当に彼がその記事を読んでいる事が伺えた。なんというか…すごく、意外だ。カカシ先生ならともかく、この人がそんな事してくれているとは思わなかった。
オビトさんの言う通り、今いるチームは全体的に気心のあう連中が集まっているようなところがあった。元々リーグでの優勝経験もある名門チームではあったけれど、一度落ち目をみたおかげで逆に結束が深まったのだろう。もう一度這い上がってやるという反骨心がいい具合にチーム全体を包んでいて、オレを含み新しく投入された何人かのメンバーも、プレーに対して高い意識を持っている奴らばかりだった。以前いたチームはあまりメンバー同士でオフの時までつるんだりする事はなかったけれど、今のチームでは割としょっちゅうチームの面子で集まっている。例のバーベキューであったり、花見であったり、はたまた山奥にある粗野な秘湯をただ巡るだけの旅であったり。そういう事を企画して、ほいほい乗ってくるような気のいい奴らが多いのだ。
「楽しいか、向こうでの生活」という声と共に、ぱちんと黒い石がボードに置かれた。
ん、次お前な。下を向いたまま、オビトさんが顎をしゃくる。
「そりゃまあ……もちろん、それなりに」
一瞬考えてからオレは、質問するオビトさんにそう答えた。「『もちろん』、かぁ」とうつむいた黒髪が繰り返す。木の葉荘を出てからのオレの人生は、表面だけ見れば随分と明るいものだ。夢を叶えて、気心の知れた仲間が出来て、本当に親身になってくれる人達と暮らして。どこからどう見ても、充実した毎日だ。子供の頃思い描いていた将来の自分像に、かなり近い。……ただ、サスケがいない。そのたった一点だけの影が、絶えず離れず付き纏ってはいた。だけどそれだって、普段の忙しさや明るい笑い声の中に入ってしまえばすうっと隠れてしまう。四六時中過去の思い出に浸るには、オレを取り囲んでいる日常はめぐるましすぎる。
オレの置いた白の石が、オビトさんの置いた黒を挟んだ。「ぱちぱちぱちん」とみっつ、黒を白にひっくり返す。結構白が占めてきた。今度は勝てるかもしれない。
ひっくり返された石を見ても黙っていたオビトさんだったが、やがて「そうか、」と呟くとケースからひとつ石を取り出した。オレの答えに対する相槌なのか、ゲームの行方についての独白なのか。無表情の声色からは、判断がつきかねる。
「――それな、あいつだって多分同じだぞ」
唐突にそう言ったオビトさんは、「え?」と聞き返したオレを見ないまま、ひっくり返された石の端にそっと黒を置いた。
部屋に差し込んでくる午後の日差しは、先程より少し弱まっている気がする。
「あいつって」
「サスケ。あいつのこの数年間だって、それなりにちゃんと、楽しかったって事」
「お前だってそうだろ?」という短い確かめに、ハッとさせられたオレは急いで顔を上げた。真正面ではつやつやとした短い黒髪が、「んー、ここどうすっかなー」などと言いながらまだ盤を見ている。あの大学ン時の友達ってやつも、アパートの絵描きもさ。二年で出て行ったお前よりもずっと長い事サスケの近くにいたんだ、仲良くなってても別に何もおかしかねえだろ。そんなんにいちいち妬いてんなって。北海道でのお前の仲間がいるように、サスケにゃサスケの作ってきた世界だってあんだろ。
……そんな風に言ってくるオビトさんに「そりゃまあ、そうなんだけど」と少しむくれると、オレはパチンとまた白石を置いた。やり返すかのように黒をひっくり返し、そのままむうっと黙りこくる。
「それともなにか?お前、自分がいなくなったからってサスケに暗い顔して過ごしてて貰いたかったのか?」
突然そんな事を言ってきたオビトさんに、一瞬詰まったオレはやがて大きく目を見開いた。
前みたいに周りの奴らから距離置いて、ひとりぼっちで。いなくなったお前の事だけ考えて、鬱々と暮らしてて貰いたかった?そんな風に訊いてくるオビトさんに、「ちが…っ!!」という掠れた反論をしようとすると、追い討ちをかけるようにオビトさんが言う。
「じゃあなんでそんな傷ついたようなツラしてんだよ。面白くなかったんだろ?サスケに新しい、自分の知らない友達ができていて。……自分がいなくても、あいつは平気だったんじゃないかって。やっぱりさびしかったのは自分だけだったんじゃないかって。そんな気がしてるんだろ?」
(そんな事、思ってなんか……!!)
ズケズケと土足で上がり込んできたような物言いに、かあっとなったオレは思わず反論しようとしたが、出てきたのは低い呻き声だけだった。
――本当に、そうだろうか?オレはサスケに対して心のどこかで、オレがいなくなった事で彼が辛がってくれていればいいのにと願ってはいなかっただろうか。俺が泣いたのと同じ分だけ、彼もオレと離れたことで、涙を流していてくれたらいいのにと思いはしなかっただろうか。
黙ってしまったオレに、正面で胡座をかきながら自分の腿に頬杖をついていたオビトさんが、ふと顔を上げた。……多分オレは、相当みっともない顔をしていたのだろう。口をへの字に曲げたオレに気付いたオビトさんは一瞬だけ驚いたように動きを止めたが、すぐに痛みをやわらかく握りつぶしたような、静かな苦笑いを浮かべた。なんだよお前…意外と、打たれ弱いのな。苦笑混じりに言う、その声が優しい。
「あのさ…お前も、サスケもさ。お互いバラバラになってもちゃんと楽しかったし、それぞれ充実した毎日を送ってたんだろ。でもな、それでもサスケはそこにいるよりも、お前ンとこに行くのを選んだんだ。お前がいいと、思ったんだ。……それだけでもう、これ以上ない位の充分な答えになってんだろが。なんでそんな、不安がることがあるんだよ」
――もっと自信持てよ、ナルト、と平坦なトーンで告げてくる言葉のまっすぐさに、口を結んだオレはなんだか涙が出そうだった。
わかってるんだ、そんなの言われなくてもわかってる。
本当は、サスケとまた会えただけでも満足できる筈だった。だってあのサスケがオレを追っかけてきてくれるなんて、それだけで本当にすごい事だ。誰にも何にも絶対に屈しない、強くて気高いプライドを持つ美しい人。もう二度と会えないと思っていた彼にまた会えただけで、また隣にいられるだけで、それだけで充分嬉しかった。
だけどそんなサスケが、あんまりにも昔通りの無防備な表情をオレに見せてくれるから。
赤い唇の内側にある、甘い熱をオレに許してくれるから。
その全部をオレのものにしたくて、すべてを貪りたくて。……そんなやっと手に入れた彼を誰にも渡したくなくて拗ねている今のオレは、嫉妬深いただのエゴイストだ。まるで気に入りのオモチャを独り占めしたくてうずくまる、手の負えない我侭なガキだ。
「――お、やった。カド取ーった」
不意打ちのようにあげられた明るい声に下を見ると、いつの間にか進んでいた盤の上の戦いは四隅とあと少しを残すのみとなっていた。ぱしん!と音を立ててその角のひとつに黒が置かれると、パタパタと一辺の白が黒にひっくり返る。はっとして慌ててその取られた部分を取り戻そうと石を置いたが、その布石はまた更にオビトさんにもう一つの角を取らせるだけだった。あれよという間に白っぽかった景観は、黒の石で塗りつぶされる。ダメだ。これ以上やっても、もう勝負は見えてるだろう。
「うそ……また負けたってば」
「へっへへ~、どーよこのアラフォーの実力!オレやっぱ最強!!」
「ずりーってばオビトさん、やっぱ囲碁やってるヤツの方がオセロも強いんじゃねえの?」
「関係ねえって、オセロと囲碁は別モンだって言っただろ」
「じゃあなんかハンデ付けるか、せめて先攻はオレに譲ってよ」
「そんなのジャンケン勝てばいいじゃねえか」
「それも勝てねえから言ってんだって!なんでオビトさんといいサスケといい、うちはの人達って皆ジャンケン強えの?家系なの?」
尖らせた口でブツブツと抗議をすると、そんなオレにオビトさんがキョトンとして首を傾げた。「は?なに、サスケもジャンケン強かったか?」という質問に憮然顔で頷き「オレってばサスケに、これまで一回も勝てたことないってば」と答えると、少し驚いた様子のオビトさんが「一回も?木の葉荘にいた頃からか?」と目を大きくする。
「へーえ、一回もか。そらスゲエな」
「なにが?」
「あ?………あー…いや、なんだ。実はな、このジャンケンてな、心理学を応用した簡単な必勝法があって」
訊き返してきたオレに対しちょっと目を泳がせていたオビトさんだったが、訳がわからないながらも真っ直ぐに自分の顔を見つめてきているオレに気が付くと、やがて(しょうがねえな)といったようにがりがりとうなじを掻いた。バツの悪い顔で打ち明けてきた話に、思わずポカンと口が開く。
「必勝法ぅ~?」
「そ。……オレもこないだ、リンに教えてもらったばっかなんだけど。割と有名なテクニックらしいから、多分あいつお前とジャンケンする時にもその技使ってるんだわ」
思ってもみなかった種明かしに「ええっ、なにそれ。ズルってこと!?」とつい腰を浮かすと、誤魔化すような笑みを浮かべたオビトさんが「違う違う。ズルじゃなくて、あくまでただの勝ちやすくするための技だから。必勝法と言いつつも絶対じゃねえし」と言いながら(へへへ)と笑った。相手の心理を読んで、出すやつを予測するだけ。だから外れる事だって多いんだ。オレがお前に今勝ててたのはたまたまオレの読みが当たってたってだけで、回数多くなってきたら多分そのうちには負けが出るよ。そんな風に言い訳する惜しいハンサムに、驚くやら呆れるやらで言葉が出ない。
「…はー…すげえ、そんなテクがあるんだ」
「つーかお前、そんな毎回負けてて妙に思わなかったのかよ。一回も勝ったことないんだろ?」
「いや、なんか動きを先読みする特殊な目でも持ってんのかなとか思った事はあるけど。『シャリンガン!』とかって」
「あっ、その漫画オレも知ってる!面白いよな~アレ、オレ毎週読んでンぜ!」
俄かに持ち上がった少年漫画を話題に盛り上がっていると、ふと口を止めたオビトさんがじいっとオレを見つめてきた。「なに?なんスか?」と首を傾げると、「そういえばさあ、さっきのジャンケン必勝法なんだけど」とオビトさんが話し始める。
「あっ、そーだオレにもそれ教えてくれってば!次こそサスケに勝ちてえし」
「んー教えてやってもいいけどよ、でもあれってな、テクニック自体はすごい単純なんだけど実際には中々思うようには勝てないもんなんだ。相手のことかなりよくわかってて、性格とか行動パターンとか全部把握できてないと難しいんだ」
「そうなの?」
「しかしあれだな、全勝っていくらテク知ってても、そうそうできるもんじゃないんだぜ?一度も勝てないって事は、お前完全にサスケに裏の裏まで動きを読まれてるって事だろうな」
「へ?」
「なんだかんだ言ってもさ、サスケはお前の事、今も昔も本当によく見てんだなー」
おどけたような笑いと共に言われた言葉が、余計な事を考え過ぎて自らぐちゃぐちゃに絡ませてしまっていた頭の中を、驚く程すんなりと通り抜けていくのを感じた。……そうだよ。視線の種類は違っても、サスケはいつだってオレの事、ちゃんと見ててくれたじゃないか。ようやく思い出せた事実に放心するオレに向かい、ニヤニヤ笑いのオビトさんはおどけたように片眉を器用に上げる。かと思うと今度はころりと表情を崩し、切れ長の目尻がデレっと落とされた。「いやいやそんな事よりもさ、そのジャンケンの事教えてくれた時のリンがさぁ~」などと嬉しげに言いながら、ぴょこぴょこと落ち着き無く揺らすオビトさんの膝が、視界の端に映り込む。
――オレもね、いっつもいっつもリンにジャンケン負けてばっかで、あんまりにも勝てないから訊いてみたわけよ。そんでこの必勝法の事教えてもらったんだけどさ、そん時あいつオレになんつったと思う?『ほらね。いつだって私はオビトの事ちゃんと見てるんだから』だって。『ちゃんと見てるんだから』だって!ンもーなんであいつってああも昔っから可愛いんだろな、しかももう40も過ぎたってのに年々可愛さが増してんだよ、どうしようオレ毎朝毎朝あいつに会うたびに胸キュンしてるんだぜ、これいつかジジイになったらキュンした瞬間心臓発作になってそのままあの世に逝っちまう事になるかもしんねえなって最近ちょっと心配してるんだけど、でも考えてみたらその死に方ってスゲー幸せだと思わねぇ?腹上死の上をいく幸せ度だと思うんだけどお前どう思うよ。
「……つーかおい、聞いてんのかよナルトォ!」
合いの手も挟まないまま勝手に繰り広げられるノロケ話もそっちのけに、今しがた言われた言葉の嬉しさに依然ぼおっとしてしまっていたオレは、いきなり眼前に迫ってきたまっくろな瞳にパチンと思考を打ち切られた。ギョッとしてまばたきを繰り返すオレに向かい、オビトさんは「オレ今ちょっとイイ話してたんだけど」とぶうたれる。慌ててそんなオビトさんに「…聞いてた。聞いてましたってば」と言ったけれど、ノンストップのノロケ話が右から左で流されていたのは、うろたえる視線からは丸解りだろう。
「ウソつけえ、絶対聞いてなかっただろ」
「そんな事ないってば」
「なんだよ、どうせサスケの事でも考えてたんだろ。あいつあの友達とどこ行ったのかなとか、どんな事話してんのかなとか、雨降ってきたけど大丈夫かなとか」
「……えっ?」
思いがけない言葉に急いですぐ横の大きな掃き出し窓を見ると、いつの間にこんなに集まったのか濃い灰色の重たげな雲がどんよりと空を覆っていた。ポツ、ポツ、と出初めの数滴が降ってきたかと思うと、あっという間にその数は増えていき、ざあっと音を上げ無数の雨粒が落ちてくる。
バケツをひっくり返したかのような驟雨に呆気に取られていると、裏の方から「ああ危なかった、ギリギリ間に合ったわね」という耳に心地いいソプラノが聴こえてきた。立ち上がり伸び上がってみると、少し肩を濡らしたミコトさんが、両手いっぱいの洗濯物を抱えたまま台所にある勝手口で苦笑いを浮かべている。
「あっ、オレ手伝います!」
「ほんと?じゃあこれ居間の方へ持ってってくれる?」
急いで駆け寄ったオレに「ごめんね、助かるわー」と言ったミコトさんは「これ私畳むから、畳の上に適当に置いといてね」と言って山盛りの洗濯物をオレに渡した。大きく腕を広げて受け取ると、ほんのりとしたシャボンの清潔なにおいが鼻をくすぐる。あ、これ、サスケの部屋のにおいだ。そんな事に気が付くと、なんだか腕に抱えた洗濯物に今すぐ顔をうずめたい誘惑に駆られた。いやいや流石にそれを今やるのはマズイってば、とその衝動を抑えくるりと踵を返すと、洗濯物を渡したミコトさんはまだ何か外に用があるのか、すぐにまたサンダルの足を外に向けようとしている。
しかし突然何かを思い出したかのように「あっ、そうだった」と呟いたかと思うと、ミコトさんは居間の方に向かって「オビトくーん!」と大きな声を上げた。「んー?なーにー?」という間延びした声と共に、ようやく立ち上がってきた惜しいハンサムが、台所の暖簾をめくりひょこりと姿を現してくる。
「なに?洗濯物オレも入れる?」
「ううん、そうじゃなくて。なんかね、今うちの前に来た車、カカシ君とこのような気がするんだけど」
「カカシ?」
ごめんね、私ちょっとまだ外にいるから、悪いけどお茶はオビト君出してくれる?と言いながらまた勝手口から出て行ったミコトさんを見送りつつ、残された二人で顔を見合わせていると、程なくして表玄関の方から「こんにちわー」という訪いを告げる声がした。「あ、ホントだ」と感動も無く呟くと、ペタペタと裸足の足の裏で板の間を踏みながら、オビトさんが手ぶらのまま玄関に向かう。…親友にお茶を振舞うような気は、この人には最初から一ミリも無さそうだ。
言いつけ通りドサリと居間の畳の上に一抱えもある洗濯物を山にして置くと、オレは急いで話し声のする玄関へと向かった。格子状のガラス枠の嵌る大きな引き戸の内側、広い土間の真ん中で、午前中会ったばかりの恩師が再びひょろりと立っている。下げた手には白いレジ袋。推測するに、中身は多分トマトだろう。薄い乳白色のビニールに赤く熟れた皮が透け、ふっくらとした丸みを見せている。
「カカシ先生?どしたんだってば?」
間を置かない再会に率直に不思議がると、ほんの少しきまりの悪そうな笑いを浮かべた先生はレジ袋を手に下げたまま、僅かに肩をすくめた。「…とりあえずこれ。お詫びの品ね」と手渡された袋に首を捻りつつ、立ったままの恩師を見る。
「お詫び?お詫びってコレ、サスケに?」
「うん」
「……あの絵の事で?」
「そう。事情を話したらさ、イルカ先生に今すぐ手土産持ってお詫びしてきなさいって怒られて」
そう言って苦笑いを浮かべるカカシ先生に、ひとりだけさっさと玄関を上がってすぐの板間で腰を下ろしていたオビトさんは「なに、あの男、お前に説教すんのか」と感嘆したかのように言った。「うん。『自分がされて嫌な事は、他人にもしちゃいけません』だって」という言葉に、オビトさんがボソリと「真っ当だな」と応える。そんな短い感想に「デショ?真っ当なのよ」などと言う先生は、怒られたという話の筈なのに何故だかどこか嬉しげに笑った。そういえば本当に、あのふたりがあんなに仲がいいなんてオレは全然知らなかった。時間が進んでいるのはオレだけじゃないんだなと、改めて思う。
事情って?と尋ねると、ちょっと浮かれた表情になっていた先生はすぐにそれを引っ込めて、代わりに少し困ったような下がり眉をつくった。んー…なんだろうな、実はオレ達も、あそこであんな絵が出てくるなんて思ってもみなくて。そんな風に言いながら、先生は空いた両手をツナギのポケットに突っ込む。
「俺はさ、俺らが見たのと同じ絵が、あの包みの中には入ってると思ってたんだけど」
「見た絵って――カカシ先生、じゃあ最初からあの包みの中身知ってたんだ?」
「うん。あ、いや、それは俺が勝手にそう思い込んでいただけで、結果的に入ってたのは俺の予想していた絵とは全然違ってたんだけど」
違ってた?それってどういう事?と更にわからなくなるオレに、カカシ先生は尚も言い訳するように言った。だってさあ、あの絵を持ってきた時、デイダラさん言ってたんだよ。あの時のサスケを見れなかった奴に、どうしてもこれを見せてやりたいからって。見れないままじゃ、勿体無さすぎるからって。
「そんな風に言うからさ、俺もてっきりあの中身は例のコスプレした時のサスケだと思ってたんだよね」
そう言って続けようとした言葉の中に、聞き捨てならない部分を拾ったオレは「はぁ!?」と素っ頓狂な声を上げた。「ちょちょちょ…待ってってば、なんか今スゲー事言わなかった!?」とすかさず突っ込むと、大きな声を出すオレにちょっと目を細めた先生は、「そうなのよ、これがまたそっちはそっちで、かなりの傑作でさ」とニヤリとする。
えっ…なに?なにがどうなってそういう事になったんだってば!?と目を白黒させるオレにちょっと笑いかけると、先生は「うーん、一体どこから説明したらいいのかなあ」となんだかぼやくように言った。いつもよりも更にボサボサ度の増した頭が、少し考えるように下を向く。
やがてふと顔を上げた先生は既に悠々と胡座をかいているオビトさんを見ると、その斜め前の框に歩み寄り、「よっこらしょっと」と小さくこぼしながら、慣れた仕草で腰掛けた。……多分この人達はこんな風に、子供の頃から玄関先で話し込む事がよくあったのだろう。
「おいおいすっかりおっさんだな、はたけクンよォ」
座る際に出た年寄りじみた呟きに、鼻で嗤うかのようにオビトさんが言った。
さっきから開けたままだった扉の向こうでは、にわか雨がまだ続いている。向こうに見える黒門もしとどに濡れ、そこから玄関先にまで続く飛び石にも、空から落ちてきた大きな雨粒が、ぴしぴしと跳ねている。
「なに言ってんの。お前だって人の事言えないでしょ、うちはクン」
歯に衣着せない直言にふと振り返った先生は、つんと顎を突き出しているオビトさんを見ると、泰然としてそう言い返した。それを聞いたオビトさんはフンと鼻を鳴らしながらも、不敵な様子でニヤリと笑う。
その横で立ったまま、そんな二人のやり取りにちょっとポカンとするオレに気が付いたカカシ先生は、「まあ、ナルトも座んなさいよ。ちょっと長い話になるからさ」と他人の家だというのを感じさせない遠慮の無さで、オレに座するのを勧めてきた。
要領を得ないままでもとりあえずオレがその場に座ったのを確かめると、とぼけた瞳をやさしい三日月みたいにしならせた先生は、「そうだねえ、まずはやっぱり、イタチが木の葉荘にいた頃のとこから始めるべきかな」と言うと、ゆるゆると昔話を語りだした。